投書者file.011:石上北天
目次
略歴
石上北天(いわがみ ほくてん)は、富山出身の僧侶。平民。生没年不詳。浄土真宗本願寺派明通寺住職。のち梅上山光明寺(東京・神谷町)へ移る。政府に複数の建白書を提出し、言論結社・共存同衆に加入するなど、僧侶の中心的人物として活発な活動を行なった。
投書
『朝野新聞』1878年8月11日
石上北天の投書は1件。投書は箴言からはじまる。
「人、叡智なりと雖も、万行千言皆以て取るに足らざるべし。人、愚魯なりと雖も、一言一行亦以て取るに足るものあらん。諺に所謂、智者の一失愚者の一得と。余、斯言を古今万般の事に照らして、自から深く信じて疑はざる所ろなり。」
「智者の一失愚者の一得」とは、「智者」でも誤りがあり、「愚者」でも見るべきところがある、といったほどの意味である。石上はこれを、「深く信じて疑はざる所ろ」なのだと述べる。
大新聞の投書では、このように投書の内容に関連する箴言、格言、戒めなどから入ることがよくある。そしてこれにつづいて本題が示される。
「然るに貴社新聞1476号(8日の論説)並びに投書の欄内を読み、一団疑塊の胸裡に浮ぶあり。」
3日前に掲載された論説および投書について、石上は「疑塊」を抱いたという。
論説では、ある人物が政府に建言書を提出したが受理されず、憤懣のあまり宮内省の前に居座った、ということが記されていた。石上は、まずこの事実について言及する。
「府下世多ヶ谷村豪徳寺に寓する遠城謙道と云ふ人は、其の姓名さへ新聞紙上にて始て見知りし程のことなれば、其の徳、其才の如何なるやは固より聞知せざれども、旧主井伊直弼氏を思ふの切なるより、一通の建言書を院省府等へ差出し、皆容れられざりしに付、新たに木台を造り、書を其上に加へ宮内省門前の地上に端座し動かざるより、警視官を煩はし、豪徳寺住職へ引渡されしは、其態の狂頑なる、之を見し人は三歳の童児も定めて嘲笑せしならん。」
桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の家臣だった遠城氏は、直弼の墓がある豪徳寺に住み、主君の死後も忠誠を失うことはなかった。そして直弼の名誉回復を乞う建言書を、政府に提出しようとしていた。だが、いくつもの「院省府」をたらいまわしにされた挙句、受理されなかった。そこで宮内省前に居座り受理を懇願したが、周囲から「嘲笑」された、というのである。
しかし石上は、この「遠城氏」の行動に同情する。
「然れども遠城氏は、其の建言書の官に達せざりしにつき、慷慨の余り、身体を置くに処なきの思ひより恐らくは此の狂態を現はせしなる可し。」
その背景には、石上が同様に建言書を提出した数年前の経験があった。
「余、去る明治7年中、左院へ建言書を差出せしことあり。其の建言の趣意は、明治3年中、旧富山藩内に於て、諸宗寺院悉皆一宗一寺に合併相成り、……〔檀家〕70軒未満の向き数十箇寺、猶開寺相成らざるより、其苦情彌〔いよい〕よ盛にて、余等同宗同胞の憂患捨置き難きに付、其の事情〔を〕具陳し、左院へ呈したりき……〔その後〕内務省へ廻移、同省より該県へ下問相成……〔さらに〕其後該県上申の都合により右建言書は一先ず却下せられたれども、遂に微意貫徹し、明治9年2月に……悉皆開寺の処分を仰ぎ、数千百の僧侶門徒は再び天日を拝するの思ひをなせり。」
引用がやや長くなったが、ようするに石上が提出した建言書も、たらいまわしに近い状態に置かれたが、2年近くたってようやく訴えが聞き入れられた、ということである。
自身のこうした経験から、「遠城氏」の話もひとごととして捨て置くことができず、この投書に至ったのである。石上は最後に次のように述べている。
「愚者の一得決して採るに足るもの無しとも預め定むべからず。……建言書を官衙に達せしむる為め、東西に奔走して竟〔つい〕に其志を遂げざるは、豈遺憾の至りに非ずや。知らず方今官衙建言書領収の制規は如何なるや。偶ま朝野新聞を読み、同感の余、往時を回顧し、将来を思ひ、敢て江湖の識者に問う。」
参考資料
澤大洋『共存同衆の生成』
共存同衆は小野梓などが中心となって1874(明治7)年に設立された言論結社。石上もその一員として活動した時期があった。
澤大洋がまとめた共存同衆の名簿に、石上の略歴は次のように記されている。
東京府、平民。浄土真宗本願寺派僧侶、中講義、酬恩社幹事、和敬会幹事。(178ページ)
※出典:澤大洋、1995、『共存同衆の生成』青山社
Webサイト「浄土真宗本願寺派光明寺」
「光明寺」のサイトに、石上の顔写真とともに、次のような一文が掲載されている。
「明治初年の仏教弾圧・廃仏毀釈は全国の寺院・門徒に大きな打撃を与えた。当寺第29代住職の石上北天は,仏教界再生のために宗派を代表する立場で活躍した。
:
1880年(明治13年) 富山県出身の石上北天(第29世)、光明寺へ入寺する。」
ここで指摘されている「活躍」の一端を、さきの投書に垣間見ることができるだろう。
『東京日日新聞』1875年5月16日投書
この投書に、1874(明治7)年提出の石上の建白書が転載されており(上記投書で言及されている建言書とは別のもの)、その末尾に石上の住所が記されている。
新川県管下礪波郡石王丸村明通寺住職 石上北天
当時、新川(にいかわ)県とされた領域は、その後石川県に編入され、さらにのちに現在の富山県となる。
『読売新聞』1890年1月18日記事
後年の『読売新聞』に、石上の活発な活動を示す記事がいくつか掲載されている。以下はそのひとつ。
○僧侶撰挙権に付き集会 久しく喧すかりし法律第3号第12号の件についての僧侶建白一件は暫く音沙汰なかりしが、建白者総代石上北天氏の発起にて、昨17日築地精養軒に府下各新聞記者を聘し、相談会を開きたり。……
投書一覧
- 『朝野新聞』1878(明治11)年8月11日
無題(遠城謙道氏の建白について)

