投書者file.010:栗田万次郎

略歴

栗田万次郎は、京都出身の本草学者、儒者。文政年間(1818-1831)~1900(明治33)年。幕末には本草学者として小笠原諸島の調査を行ない、明治に入ると官員として各地の調査に出向いた。新聞の編集にも携わった。

投書

『郵便報知新聞』1879年11月7日

栗田の投書は1件。タイトルは「舞草」。自身の専門分野に関する投書である。

「去月念二日、浅草寺界内なる植物會を縦覧せしに、架上に一異種を観る。盆に舞草の名を標せり。即ち印度産舞草(ダンシングプラント=左側ルビ)なり。

冒頭の「念」は「廿」(二十)の代用の文字であるため、「念二日」は「二十二日」を意味する。「舞草」とは、「ダンシングプラント」というルビでわかるとおり、「踊る植物」である。ネット上の用語集「コトバンク」では、次のように説明されている。

マメ科ヌスビトハギ属の多年草。高さ1メートル以上になる。葉は3小葉からなり、側小葉は30℃前後の日当りのよい所では自然に上下運動をする。このためマイハギの名がついた。またユレハギ(揺萩)、マイクサ(舞草)ともいう。夏、総状花序をつくり、紫色の小花を開くが、目だたない。繁殖は実生(みしょう)、挿木による。(後略)[高林成年] 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

さて、栗田は本草学者であり、舞草についても詳しいはずだが、何のために投書したのだろうか。

「此種歐洲にては誰も知らざることなき者なれども、此間未だ傳来せざるゆえ、学者すら知らず。況や世人おや。乃ち會主に出品主を問しに、巣鴨花戸卯之吉なる由。會後、更に将来せる年月をも質問せんとて、會主と別れ、家に帰りて、其夕燈下、一二の西籍を紬繹〔ちゅうえき〕し、此種の端委を掲載して、鋤雲先生に郵寄す。

ヨーロッパではよく知られているが、日本にはまだ伝えられていないと思われた舞草が、浅草寺の植物会に展示されていたため、その珍しさもあって投書した、ということだろう。「鋤雲先生」とは『郵便報知新聞』主筆の栗本鋤雲(1822~1897)である。

投書の後半には、「西籍」の「紬繹」(抜き書き)が記載されているが、その前に次のように中国の書物について言及している。

「唐段加古酉陽雑俎云舞草出雅州…(中略)…柯古、唐時に在て博学強記、其撰する所の雑俎多く西域荒裔の事物を載す。往々徴するに足る。而して人或はこれに近き拍手謳曲すれば必ず動くと謂に至りては、蓋し漢人の誕妄を免れず。且雅州は今何處に属するや、支那の地理に疎ければ詳ならず。先生考る所あらば幸に教示せられよ。」

『酉陽雑俎』 (ゆうようざっそ)とは、唐の学者、段加古(段成式)が著した書物である。投書ではこの書物からの引用(漢文)がもう少しあるが、上に引用したとおり、栗田による説明があったため省略した。

『酉陽雑俎』は参考書として非常に優れており、舞草についても詳しい記述がある。しかし舞草が音に反応して動くという点については、栗田は一笑に付している。このあとに栗田が抜き書きした「西籍」によれば、舞草は気温によって動きが変わるとされている。

「此の種、印度に産する荳科の草本にして……往時英邦の婦人モンソン氏の創見せるものなり。……小葉恒に自動する。互いに一上一下して止まず。……大葉は常に左右に動揺し、小葉に較ぶれば極めて緩徐なり。……印度の気候にては其動数凡そ一分時間に七十次と云う。然れども英邦に於ては如ㇾ此迅疾なることなし。(後略)」

投書はこの抜き書きで終わり、投書の半分以上が抜き書きで占められていた。『酉陽雑俎』への言及部分も含めれば、投書の大半が舞草の説明に終始していることになる。

投書が掲載されたのは1879年。この時期はどの新聞も投書掲載数が激減し、掲載された投書の内容も、政治から離れ、穏健なものが多い。栗田の投書もそのひとつであった。

なおこの投書には舞草の絵が付されている。栗田が描いたものと思われるが、当時の大新聞では絵入りの投書は珍しいため、以下に示しておく。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 舞草.png です

出典:郵便報知新聞刊行会編『郵便報知新聞』柏書房

参考資料

平野満「文久年間の小笠原島開拓事業と本草学者たち」(1998年)

この論文のサブタイトルは、「小野苓庵(職愨)・宮本元道・井口栄春・栗田万次郎・阿部櫟齋」であり、栗田についての言及もある(下線は引用者。以下同じ)。

論文によれば、本草学者として著名な伊藤圭介が、大垣藩医の江馬活堂に宛てた書簡(文久元年=1861年)において、

「栗田万次郎(当春ナゴヤ拙宅へ来訪、儒者ニテ西学本草モ好、宮津藩)」(39ページ)

と記している個所がある。宮津藩は現在の京都府にあたるため、栗田の出身地を京都と推定した。ただし、このあと紹介する官員録によれば、のちに本籍を東京に移したようだ。

また同じく文久元年の書き付けでは、栗田について次のように記されているという。

「伯耆守様御家来栗田万次郎儀…」(16ページ)

この「御家来」という記述から、栗田の明治以降の族籍を士族と推定した。「伯耆守」は松平宗秀で、丹後宮津藩の藩主でもある。

栗田に関しては、そのほか次のような記述もあった。

「栗田万次郎は名を昭、湛斎と称した。本所駒止石、のち根岸金杉村に住んだ。当時の人名録(『江戸現在 広益諸家人名録三編』文久元年刊、『文久文雅人名録』文久3年刊)には儒者として記載されているが、本草学者としても著名であった。」(40ページ)

※所蔵:国立国会図書館デジタルコレクション(平野満、1998、「文久年間の小笠原島開拓事業と本草学者たち」『参考書誌研究』49号

長谷川仁「自然の文化誌 昆虫篇-14-栗田万次郎海外調査のこと」(1977年)

この小文には栗田の生没年が記されており、それによると文政年間(1818~1831年)生、1900(明治33)年没であるという。また、このあとの資料でも述べるが、新聞の「もしほ草」の編集にも携わったことが記されている。

※所蔵:国立国会図書館(長谷川仁、1977、「自然の文化誌 昆虫篇-14-栗田万次郎海外調査のこと」『自然』32巻2号=デジタル化論文=館内でのみ閲覧可)

宮武外骨『明治新聞雑誌関係者略伝』(1985年)

岸田吟香の項に、次のような記述がある。

「岸田が『もしほ草』の編輯をしたのは、明治元年七月二八日発行第一八篇までで、その後はかれの関係した他の事業が多忙のため栗田万次郎がその編輯にたずさわったという。」(58ページ)

明治元年に栗田は『もしほ草』の編集に参加していた。この時期には活動の拠点を東京に移していたのだろう。

各種辞典によれば「もしほ草」は、随筆や筆記を意味する。「もしほ」の漢字は「藻塩」であり、「もしお」と読む。

日本新聞協会編『地方別日本新聞史』(1956年)

樋口宅三郎執筆部分「神奈川県新聞史」に、以下のような記述がある。

「明治新政府は慶応四年六月太政官布告を発した。雲の如く湧いた江戸の新聞に幕府支持の色彩強く、官軍に不利な記事が続出したからだ。この布告の一齊発行中止による無新聞時代に、ただひとり発行されたのは「横浜新報もしほ草」であった。発行所は治外法権の横浜居留地九十三番、発行人は米国領事館員ヴェンリードとあってはひよわな新政府の手の及ぶところではなかったのだ。編集には岸田吟香、ヒコ、中村嘉平、栗田万次郎が従事したとあるが、正確は保し難く、吟香のみが大きく浮び出ている。吟香の退社後栗田が従事した。」(160ページ)

この記述の出所は不明だが、さきの外骨と同様の記述である。文中に登場する「ヒコ」は、ジョセフ・ヒコのこと。

江崎悌三「日本の現代昆蟲学略史」(1957年)

これは投書時からやや時代が下るが、投書の内容に関係する記述があったため紹介する。

「江戸時代の学会の伝統を引いて、しかも異色のあつた学会は明治21 年に東京で作られた“多識会”で、民張派の重鎮であつた伊藤圭介(当時86 歳)を中心に、林洞海、今村亮、浅田宗伯、栗本鋤雲、田中芳男、小野職愨、栗田萬次郎などの錚々たる人達が集り」(163ページ)

前述の伊藤圭介の名もある。また、さきの投書で「鋤雲先生」と呼ばれていた栗本鋤雲と栗田万次郎のつながりも垣間見える。当時の人的ネットワークを調べると非常に面白いのではないかと思う。

※所蔵:国立国会図書館デジタルコレクション(江崎悌三、1957、「日本の現代昆蟲学略史」『昆蟲』25巻4号

官員録2件

  1. 『官員録』(明治9年2月改正、西村組出版局)
     内務省勧業寮「9等出仕」トウケイ(=東京)
     ※所蔵:国立国会図書館デジタルコレクション
  2. 『官員録 全』(明治10年8月、日暮忠誠編)
     内務省内國勧業博覧会事務局「御用掛35圓」トウケイ
     ※所蔵:国立国会図書館デジタルコレクション

明治9年の官員録の、勧業寮「9等出仕」の直後の等級は「中属」で、この「中属」に以前紹介した「鳴門義民」の名がある。栗田と鳴門が互いに面識があったかどうかはわからないが、意外なところに接点があるのも、当時の人間関係を考えるうえで興味深い。

また明治10年は内国勧業博覧会が行なわれた年であり、その事務局に雇われていることは、博物学者(本草学者)として知られた栗田に対する当時の評価を推し量る手がかりともなろう。

訂正

今回、栗田万次郎について改めて調査したところ、「about」で紹介している拙稿の付表の内容に誤りがあることが判明したため、以下に訂正事項を記しておきます。

  1. 出身地:(誤)鳥取→(正)京都
  2. 職業 :(誤)『東日』→(正)『もしほ草』

投書一覧

  1. 『郵便報知新聞』1879(明治12)年11月7日
    「舞草」
長崎

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