コレラ編#04:岸田吟香

今回は、明治の新聞史を語るうえで欠かすことのできない新聞人、岸田吟香の投書。

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略歴

岸田吟香(きしだ・ぎんこう)は江戸末期・明治のジャーナリスト、実業家。1833(天保4)年~1905(明治38)年。岡山出身。

投書

岸田吟香のコレラ関連の投書は1件。1874年と78年にも合わせて5件の投書が掲載されているが、それらについてはまたの機会に紹介したい。

『郵便報知新聞』1877年10月9日

投書は、「大新聞」には珍しく口語体である。吟香の他の投書でも口語体が用いられており、当時の新聞界のいわば重鎮の一人であった吟香の文体に編集者が手を入れないことは、おそらくは暗黙の了解事項だったのだろう。

投書は短く、文章も非常にわかりやすいので、解説するとかえってわずらわしくなる。そのため、投書文を最初にすべて掲載し、さらに今回は紙面のコピーも掲載した。コピーの質が悪いため読みにくい部分もあるが、文体や振り仮名など大変面白いので、当時の雰囲気を味わっていただければと思う。

コロリが追ひゝ蔓延〔はびこり〕ますから、お互いに油断なく予防薬〔ふせぎぐすりか〕を用ゐねば成りませんが、夫には石炭酸と云ふ薬種を第一とすることは、先達て衛生局の御報告にて皆様御承知も有りませうが、此節その薬品が払底ゆえ、殊のほか高價〔たかく〕なりまして、大きに差支へます。
然るにその石炭酸の代りに亜硫酸と云ふ薬種を用ゆるが宜しい。是はコロリの毒を撲滅〔うちけ〕す功能のある物で、値段も壹ポンドに付き二十五銭ぐらゐなるべし。
此薬三ポンドに水を三十二、三ポンドの割合に調合すれば、僅かの金で澤山に予防薬ができるから、是を大小便所の内外から下水、どぶ、掃溜などへ十分に蒔散らすが宜しう五坐り升。
是は美国の名医セメンズ先生から承りましたから御披露申します。皆様おたがひに命は大切で五坐りますヨ  岸田吟香記

報知1877_10(岸田吟香)

吟香の投書でも「セメンズ先生」の名が最後に出てくる。セメンズ(シモンズ)については、前々回の菊地一以の投書で登場した折に紹介したので、そちらを参照してほしい。いずれにせよ「セメンズ先生」が、当時の日本におけるコレラ対策でいかに重要な役割を担っていたかが、この言及からも窺い知ることができる。

ちなみにこの投書における口語体は、「小〔こ〕新聞」の文体そのままである。管理人の専門はもともとは小新聞なので、いずれ機会があれば小新聞の投書についても紹介してみたい。

参考資料

『明治新聞雑誌関係者略伝』

岸田吟香については数多くの資料が残されているが、やはり宮武外骨の『略伝』が、吟香の新聞人としての側面をよく伝えているので、以下に引用しておく。

岸田吟香 きしだぎんこう 天保四年四月八日生、明治三八年六月七日歿。七三歳。(一八三三~一九〇五)岡山県美作国生。本名は銀次。ヘボン博士、ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)について英語を学ぶ。慶応元年彦蔵が創刊した『海外新聞』の編輯を手伝い、慶応四年閏四月にはヴァン・リートと共に『横浜新報もしほ草』を創刊した。岸田が『もしほ草』の編輯をしたのは、明治元年七月二八日発行第一八篇までで、その後はかれの関係した他の事業が多忙のため栗田万次郎がその編輯にたずさわったという。その後、明治六年早々『東京日日新聞』に入り同一〇年二月まで編輯長又は印刷長として、その後同一五年までは長老もしくは客員的存在として同紙の報道記事を斯界第一等のものとし、広く新聞界の発展に貢献。岸田の薬業界、日清文化交流等についての功は杉山栄著『岸田吟香』等参照。

※書誌情報:宮武外骨・西田長寿(1985)『明治大正言論資料 20 明治新聞雑誌関係者略伝』みすず書房

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