投書者file.017:松島十湖
目次
略歴
松島十湖(まつしま・じっこ)は、明治時代の俳人、農政家。静岡出身。平民。1849(嘉永2)~1926(大正15)年。俳句では多くの門人を育てるいっぽう、報徳社や農学社を結成、さらに県会議員、郡長を務め、地域の農業振興に尽力した。
投書
松島十湖の投書は2件。いずれも自らが居住する村ではなく、隣村の「開化」について投書している。2件とも短いので、全文を引用する。
『郵便報知新聞』1873年12月18日
1件目の投書は、松島が住む「中善地村」の隣り、「笠井村」の現況について。中善地村と笠井村は現在の浜松市東部に存在した村である。
遠江国長上郡第一大区廿八小区笠井村は、人家稠密、人民輻輳の地にして、濱松在第一の開化なり。
然るに旧来の法を唱へ、戸数の増殖するを許さゞるの一悪習あり。区長戸長にて今、一際注意説諭ありたきことなり。後来人家殖るに至らば、一村は勿論、其近隣の便利繁昌、言を俟たずと、嘆息の余り貴社に投じ、江湖に高評を乞ふ者は 濱松県下豊田郡中善池村農夫松島十湖なり。
「笠井村」は浜松の「在」=いなかではもっとも開化した地であるのに、「旧来の法」に縛られ、家を増やそうとしない。区長や戸長(地域の名望家=有力者がおもに就く)が「説諭」して家が増えれば、「近隣」も「便利繁昌」となるのは言うまでもないことだが、「江湖」≒世間の人々の評価を願う。
投書時には松島も「中善地村」の戸長であったらしい。隣村の同じ立場の者に対して歯がゆさを感じ投書したのだろうか。なお投書の署名中、「中善池村」とあるのは「中善地村」の誤植。次の投書では正しく植字されている。
すこし脱線するが、投書中の「説諭」ということばは、この時期のキーワードだった。教導職も説諭し、巡査も説諭し、そして新聞も説諭した。旧弊の民衆を開化に導くための手段が「説諭」だった。同様のことばとしては「啓蒙」が近いが、重要な違いは、啓蒙が抽象的であるのに対し、説諭はより具体的で、対面で懇々と説く、といったニュアンスがある点だ。
『郵便報知新聞』1874年4月9日
2件目の投書は、1件目の投書の続報である。5か月経って、さてどうなったか。
余、曩〔さき〕に貴社新聞紙中に、隣区笠井村、旧慣に因りて民戸増殖を禁ずるの悪弊あるを記載せしに、忽ち政府より其里の区戸長を召され、原由御弾糾の上、旧軌芟除を命ぜられけるに、一時頑民共、喋々苦情を訴けれども、民権束縛の悪弊たる、方今文明の世には万々有まじき旨を以、厳然叱咎ありければ、終に承服解放の事に成りける。
投書によれば、驚くべきことに、わずか1件の投書で「政府」が動き、「区戸長」を「御弾糾」して、「苦情」をいう「頑民」を「承服」させたという。つまりは区長も戸長も「頑民」と同じ考えだったため、その上の「政府」が乗り出さざるを得なかったということだろうか。
然り而して未だ半月をも経ざるに、果して新築三戸を増加し、尚経営の区画先を争の形勢なり。必ず三年を出ずして、連檐櫛比〔れんたんしっぴ〕商估〔しょうこ〕湊聚の一大繁昌の隆地と成らんと、鑒〔かがみ〕にかけて昭々たり。是全く県治至盡の然らしむる所にして、徳風の下に波及する、眞に氣車よりも速なりと云べき也。
余も亦感の余り、再び貴社の余白を假て、開化の実効を江湖に鳴らす者は濱松県下中善地村松島十湖也。
その後「半月」も経たないうちに3戸も家が建ち、さらに増える勢いだという。この勢いであれば3年もしないうちに「一大繁昌の隆地」となるのは明らかである(「然り而して」という語に、松島の「してやったり」という気持ちが透けて見えるようでもある)。
なお「連檐」の「檐」は「ひさし」とも読むので、「連檐」は「軒を連ねる」、「櫛比」とは「櫛(くし)の歯のように、すきまなく並んでいること」(デジタル大辞泉)という意味。「商估」とは商人の意。
参考資料
松島十湖については、人名辞典だけでなくネット上にも数多くの情報が掲載されている。今回、松島について改めて検索したところ、『浜松市史』に「報徳農民」として松島十湖の生涯が記述されており、これがネット上で公開されていたので、このサイトのみ引用しておく。
『浜松市史 三』
「第三章 町制の施行と浜松町の発展 第二節 報徳運動の推移 第二項 浜松と報徳の人たち 報徳農民」
松島十湖(大正十五年七月十日没、七十八歳、墓源長院)も天竜川の氾濫が生んだ報徳家であった。豊田郡中善地の人。はじめ吉平、のちに十湖と改名した。【報徳運動】十九歳のころ福山滝助について報徳の教を学び、二十四歳のとき三才報徳社(遠譲社中善地支部と改名)を組織した。明治六年中善地村戸長、九年浜松県公選民会議員、同年県会議員、十一年第十二大区二十九小区の区会議員、中善地村々会議員、遠江国州会議員、十二年政治結社己卯杜の副社長。……(中略)……。【俳人十湖】十湖は俳人としても知られているが、俳諧の道にいそしむのは政治運動を離れてからである。酒を好み、無欲で、おのが葬式を生前に営むなど奇嬌の行為がしばしばあったが、その一生を貫くものは報徳の精神であった。
「中略」した部分にも興味深い事柄が記されているので、関心のある方は下記の引用元サイトを参照してほしい。
※出典:「浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ」(https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2213005100/2213005100100030/ht003420)
投書一覧
- 『郵便報知新聞』1873(明治6)年12月18日
無題(遠江国の笠井村について) - 『郵便報知新聞』1874(明治7)年4月9日
無題(遠江国の笠井村について:続報)

