投書者file.015:中馬秀盛
目次
略歴
中馬秀盛(生没年不詳)は、集思社発行の新聞『文明新誌』の編集長。残念ながらその他の経歴は不明(理由は後述)。
投書
今回も前々回からの論争のつづきである。
前々回は志賀直道が、書籍に掲載された西郷の詩文が別人のものであることを指摘し、それを受けて前回は、書籍の編集者である三宅虎太が弁駁をおこなった。
その弁駁中に登場した、『文明新誌』編集長・中馬秀盛の、さらなる弁駁が今回紹介する投書である。中馬の投書は、三宅の最初の投書が掲載された10日後、8月5日に、『東京日日新聞』に掲載された。
『東京日日新聞』1878年8月5日
投書に表題はない。冒頭、中馬が投書するにいたったこれまでの経緯が記される。
まず今回の論争の発端となった、『名家詩文』掲載の「知賢、弁良奸、利民」の3篇が西郷ではなく富田高慶の作である、という志賀直道の主張が示される。
頃日志賀直道氏は、東京日々新聞廣告欄内及朝野新聞投書欄内に於て、名家詩文中、西郷隆盛の作文、知賢、弁良奸、利民の三篇は富田高慶の著にして西郷氏の文に非ず云々と、其因由を詳記し以て世人に廣告せられたり。
つぎに志賀の主張に対する三宅虎太の弁駁がつづく。簡単にいうと、集思社発行の新聞『文明新誌』『草莽事情』に掲載された詩文を書籍に転載しただけであり、書籍編集者の私に責任はない、ということである。
然るに名家詩文編輯人三宅虎太氏は、其弁駁書に答ふるに、旧集思社の社長たる海老原穆が西郷氏と平素悃親なるを証し、該社の信認するに足るものあるを以て、同社及分局にて発兌せし文明新誌、草莽事情の両新誌に騰録せる西郷氏の文を抄出せしものなれば、其信偽如何に至ては當時集思社編輯長の知る所にして、予が編輯の粗漏に出るに非ず、必ずしも其據る所ありて掲載せる旨を返駁せられたり。
さて、議論の流れがこのようになると、責任を押し付けられたかたちの集思社側も黙っているわけにはいかなくなる。そこで、かつて集思社で編集長をしていた私(中馬秀盛)が投書することにした。
然るに予は、當時文明新誌編輯長の責任を負ふて、以て空しく之れを黙々に付するに忍びさるものあり。因て先つ其因故を説かん。
「其因故を説かん」と、ここからようやく本題に入るのだが、その「因故」は次のようにきわめて短い説明で終わっている。
予が該編を新紙に騰録せしは、果して西郷氏の手稿なりと確認したるには非ざれども、亦た他人の文章を以て西郷氏なりと妄信せしに非ず。其信ず可きものあるを以て騰録せしものなり。
今若し西郷氏世に在らば、其信偽如何を問ふことを得可けれども、西郷氏已に逝矣。今日にして西郷氏の文に非ず、富田氏の文なりとするも、誰れか能く其信偽を判するを得んや。
順に整理すると、次のようになる。
①詩文が西郷の作かどうか、私は確認していない
②しかし「信ず可きものある」ため掲載した
③西郷が存命なら本人に確認できるが、西郷はすでに他界した
④富田の作だという主張を、誰が確認できるというのか
一見してお分かりのように、「因故」といえるような証拠は何一つない。「信ず可きものある」と言う以上は、その内容を示すのが当然と思われるが、それもない。死去した西郷本人以外に確認しようがないのだから、富田氏の作という主張も信じようがない、と言っているだけである。
これでは最初に投書した志賀直道も納得できるはずがない。さらに上記につづく最後の一文が、志賀の怒りを買うこととなった。
世人誤て好事者の妄説を信ずる勿れ。 在東京 中馬秀盛
みずからは証拠を一切提示せず、「世人誤て好事者の妄説を信ずる勿れ」と、志賀を「好事者」呼ばわりしたうえ、「妄説」とまで言い切ったのである。
結果、志賀は激高した。前々回示したように、志賀は「好事者の妄説」を唱えているのは中馬か私か、と猛反発したのである。
このように議論はあきらかに志賀に分があるが、中馬の置かれた立場を考えると、わずかばかりだが同情したくなる事情もある。
中馬はたしかに西郷の詩文を掲載したときの『文明新誌』編集長であった。しかし実は、中馬の前に編集長だった人物(松川杢造)が、「知賢」を西郷作として『文明新誌』に掲載していた。さらにこれと同時期、他の者(杉田定一)が編集長をしていた『草莽事情』にも「利民」が掲載されていた。そして中馬は、これらが掲載されたあとに、『文明新誌』編集長となり、最後の一編「弁良奸」を掲載したのである(集思社発行の新聞および掲載記事については、塩出浩之、2008、「『評論新聞』ほか集思社定期刊行物記事総覧」『政策科学・国際関係論集』10: 49-101、に詳しいので、興味のある方はぜひそちらを参照してほしい)。
こうした事情を考慮すると、中馬はかつて集思社という結社でともに編集長という肩書きを背負った「同志」をかばおうとした、と考えられなくもない。むろん仮にそうであったとしても、それは内輪の論理であり、上のような説明では誰も納得できるわけがないのだが…。
さて今回まで、西郷の詩文をめぐる論争を、3回にわたり紹介してきた。管理人が確認したかぎりではあるが、論争に関連する投書は以上である。
では論争の結末はどうなったのか。残念ながら明確にはわからないのだが、最終的には富田の文と認められ、三宅は新聞に謝罪広告を掲載したとされる。このあたりのことは「GAIA」というブログ内の「西郷隆盛と富田高慶」と題された一文に記載されていたので、これも興味のある方はそちらを参照していただきたい。
参考資料
澤大洋 『都市民権派の形成』(1998年)
中馬秀盛にかんする資料は、管見のかぎりほぼなにもない。上掲論文および澤大洋の著書に、『文明新誌』編集長としてその名が記述されているだけである。経歴も出身地も生没年も不明である。
そのため、管理人の論文の投書者一覧表にも、中馬秀盛は載せていない。今回は投書欄で交わされた論争を紹介するため、例外的に中馬の回を設けた次第。
投書一覧
- 『東京日日新聞』1878(明治11)年8月5日
無題(志賀直道投書への弁駁)

