投書者file.014:三宅虎太

略歴

三宅虎太(生没年不詳)は、江戸時代末期・明治期の出版人。岡山出身。岡山藩士の子として生まれ、投書当時は平民であった。

投書

前回は、三宅虎太編集の書籍『近世名家詩文』に掲載された西郷隆盛の詩文が、実は他人の作であるということを、志賀直道が投書によってあきらかにした。

それを受けて、誤りを指摘された三宅が、編集者としてのみずからの名誉を守るためもあり、西郷の作として詩文を掲載した背景を説明したのが、今回紹介する投書である。

さて、三宅の投書は2件ある。

最初に掲載されたのは『朝野新聞』、その3日後に『東京日日新聞』に掲載されている。2つの投書は、表現や細部の事実関係に若干の違いがあるが、その主旨はまったく同じである。

そこで、先に掲載された『朝野新聞』の投書に依拠して、三宅の言わんとするところを見ていこう。今回も短文であるため、全文を紹介する。

『朝野新聞』1878年7月26日

投書には、応答する相手の氏名を明示した表題がつけられている。投書上で議論が行なわれるさい、このような形式が通例である。

志賀直道君  濱町 三宅虎太

福島縣志賀直道君より、予が嘗て編輯せる名家詩文中、西郷隆盛の作に係る知賢、弁良奸、利民の三篇は同氏の文に非ず、旧中村藩・富田高慶氏の建策なるを、世人謬傳して西郷氏の文なりと誤認せる旨、朝野新聞投書欄内、東京日々新聞廣告欄内に於て、喋々弁ぜられたり。

冒頭は、志賀直道が指摘した内容の繰り返しである。

このあとに、三宅の釈明がつづく。

予は其の出所の據る可き有て之を采録し、嘗て編輯を輕忽にする者に非ず。

而して該篇の世に播布する、既に一萬二千部に及んで、毫も信を大方に失はざる也。今若し之を編輯の杜撰に出ると爲さば、予が其責の以て、大に黙止する能はざる所ある也。

依て予が信認せし憑據を掲げて、先づ志賀君に答へ、兼て四方の看官に示す左の如し。

私は、西郷の詩文だという根拠があって書籍に掲載したのであり、いいかげんな編集はしていない。だがもしそうだというのであれば、編集の責任が私にある以上、放っておくことはできない。そこで西郷のものとする根拠を示したい、ということである。

ではその根拠とはどのようなものか。

抑も知賢、弁良奸、利民の三篇は、東京集思社發兌なる文明新誌、及び同社分局草莽事情の両誌より抄出せるものにして、該社の成立たる鹿児島縣海老原穆氏其社長たり。

まず、問題となっている「知賢、弁良奸、利民の三篇」は、もともとは「海老原穆」が社長の「集思社」が発行する『文明新誌』『草莽事情』に掲載されたものであることがあきらかにされる。

それを三宅が「抄出」して、書籍に掲載したという。

では「集思社」の社長・海老原穆とは、どのような人物か。

同氏は西郷桐野氏等と親睦悃切、曩に西郷氏征韓論を首唱し、帝闕〔皇居の門〕を辞するの時、海老原氏も亦官を辞して東京に止り、爾後評論新聞を發行し、益す生平の持論を主張せり。

海老原氏の西郷氏と親睦なるは亦疑を容れず。

其關係、巳に斯くの如くなれば、予は其載する所を取て眞正と確認し、之を名家詩文中に録せしなり。

海老原は、西郷隆盛、桐野利秋と親しく、西郷が征韓論に敗れて下野したさいに、海老原も西郷とともに官を辞し、東京で『評論新聞』(集思社)を発行した。

海老原と西郷の関係がこのように近しいものであるのだから、海老原の集思社が発行する新聞に、西郷の作とされた詩文が掲載されるということは、それ自体が西郷の作であることを証明している。だからこそ『名家詩文』にも西郷の作として掲載した、ということである。

なお補足すると、集思社発行の新聞は、当時反政府言論の急先鋒であり、政府によってたびたび発行禁止処分を受けた。だが発禁となるたびに、集思社は新聞の表題を変えて発行を続けた(当時の新聞紙条例には、こうした「抜け道」があった)。そして『評論新聞』が発禁となったのちに発行されたのが、前記の『草莽事情』『文明新誌』であった。

三宅はさらにつづける。上述した以外にも、西郷の作とする根拠があるのだという。

殊に該社の始て梓行する西郷氏在時に於て、曾て其文の眞否を云ふを聞かず。

今予が輯録する再伝の書中に就て、延引ながら、此説あるは亦遺憾無きに非ざる也。

疑ふらくは、當時富田氏の披読されざるに由る歟〔か〕。

集思社の新聞に詩文が掲載されたとき、西郷は存命だったが、西郷自身が詩文の「眞否」について何か語ったということは聞いたことがない。いまさらになって、「此説」つまり西郷の作でないという話が出てくるのは遺憾である。

あるいはそれは、詩文が新聞に掲載されたとき、(本当の作者とされる)富田高慶氏が読んでいなかったためかもしれない。

このように三宅は、自らに非がないとする理由を述べたうえで、最後に次のようにまとめている。

予が彼三篇を録する、既に據る所有て然り、其信否に至ては、惜て復た弁ぜず。

西郷氏逝矣と雖ども猶、前集思社編輯長の在るあり。必ず之を確然證明して、疑團を解く所あらん。予は唯斯に編輯の據る所、不明にあらざるを述て、之を志賀君に答ふるのみ。

以上のような根拠があって、私は詩文を書籍に掲載した。だから私にこれ以上言うことはない。西郷はすでに世を去ったが、集思社の編集長は存命であり、彼が証明してくれるだろう。いずれにせよ、私は根拠なく掲載したのではないということを、志賀君に示す。

さて、三宅はこのように、自らの編集者としての判断の正当性を示しつつ、最終的な責任を「前集思社編輯長」にほぼ丸投げしたのであった。

だからこそ「前集思社編輯長」は、三宅以上に、志賀の指摘を黙ってみているわけにはいかなくなったのである。

では「前集思社編輯長」はどのように答えたか、それは次回あきらかになる(すでに一部は前回触れていますが…)。

参考資料

『人物レファレンス事典 郷土人物編 そ~ん』

三宅虎太については次のように記載されている。

江戸時代末期・明治期の出版人。
¶岡山歴

やたらとあっさりしているが、これは『人物レファレンス事典』が、いわゆる事典の事典、つまりさまざまな人名事典に掲載されている人名および出典を収録し、人名調査の便を図ることが目的のためである。

そのため、より詳しい情報を知るには、出典、ここでは「¶岡山歴」に当たる必要がある。この「¶岡山歴」が、次の『岡山県歴史人物事典』である。

※出典:日外アソシエーツ編『人物レファレンス事典 郷土人物編 そ~ん』、2008年

『岡山県歴史人物事典』

これは国会図書館の人文総合情報室に所蔵されている。

調査当時に閲覧した際、管理人がとったメモには、

生没年未詳/岡山城生/岡山藩士の子

と記されている。

岡山城で、岡山藩士の子として生まれたことから、そのまま明治を迎えていれば、族籍は通常であれば士族となるはずである。

しかし三宅が編集した書籍、たとえば国会図書館でネット公開されている1878(明治11)年の『明治功臣銘々図鑑』の奥付には、三宅の族籍は

東京府平民

と記載されている。

ここから推測すると、明治に入ってしばらくは士族だったが、その後、なんらかの理由(たとえば士族の家禄奉還の動き)から、族籍を平民に変更したと考えられる。こうした例はそれほど珍しいことではない。そして族籍を変更するさいに、本籍も東京府に移したのではないか。

以上のような推測をもとに、管理人の論文では、三宅の族籍を「士族(推定)」としているが、これは族籍を分析する関係からそうしたまでで、投書当時、形式的にはすでに平民であるので、本ブログでは平民とした。

投書一覧

  1. 『朝野新聞』1878年7月26日
    「答志賀直道君
  2.  『東京日日新聞』1878年7月29日
    「答志賀君」
福島

前の記事

投書者file.013:志賀直道
不明

次の記事

投書者file.015:中馬秀盛