投書者file.013:志賀直道
目次
略歴
志賀直道(1827-1906)は、志賀直哉の祖父。福島県士族、元相馬藩家臣。のち有名な相馬事件に巻き込まれる。志賀直哉は祖父・直道の影響を強く受けたという。
投書
志賀直道の投書は2件。いずれも西郷隆盛が書いたとされる文章にかんする投書である。
『朝野新聞』1878年7月4日
冒頭では、ひと文字分を字下げした前文が掲げられ、投書した理由が語られている。概略および原文は次のとおり。
著名人の詩文を掲載した書籍が複数発行され、それらのなかには西郷隆盛の詩文とされるものもある。しかしそれは、私の友人の富田高慶が書いたものであり、その富田本人から私に訂正の依頼があった。そこで以下に、西郷の作という誤認が生じた経緯を示す。
世に刊行する所の西田森三編集 近世詩文、三宅虎太編集 名家詩文等に掲載せる西郷隆盛の文中に、知賢、弁良奸、利民の三篇あり。此三篇は、富田高慶の著にして、西郷氏の文に非ず。富田氏は余の師友なり。頃日、書を余に寄せて曰く、我文固より世に公にするを欲せず。況んや文の醜なる、論の陋なる、之を西郷氏の文中に嫁し、人豪〔=豪傑〕、彼が如き者にして此文を吐くかと、誤て世人の口碑に伝へしむるは大いに我の志に非ず。請ふ、汝其誤を正せ。余、因て左に其原由を記し、以て世人に広告す。
ここで言及されている『近世詩文』『名家詩文』は、国会図書館でデジタル化されているが、残念ながら館内閲覧限定である。
しかしWebサイト「国文学研究資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」で、『近世名家詩文』を見ることができる。ここをクリックすると、直接、西郷の詩文が掲載されたページに飛ぶ。そこから数ページ進むと、上記の「知賢」「弁良奸」「利民」がある。ちなみに「近世」とは現代の意。
閑話休題。つぎは誤認に至った経緯である。投書中、何名かの人物が登場するが、いずれも今日まで名の知れた著名人である。
なお、以下に記された事情はこれまでほとんど知られていなかったようでもあり、また、他の投書に比べると文が平易、かつ短文であるため、全文を引用する(ただし通例どおり、句読点や改行はすべて管理人の判断で追加している)。通常の引用にくらべるとやや長いが、興味深い内容で、読んでみるとひじょうに面白い。
明治四年の秋、西郷氏東京に在り。富田高慶(旧中村藩士)は、二宮金次郎先生の高弟にして報徳社の巨擘〔きょはく〕たるを知り、或人に介して其文を示さんことを余に嘱す
(余が聞く所に據るに、西郷氏、少時水戸に遊びしの日、藤田東湖の話、次に二宮先生の行状を聞き、其徳を慕ひ直に往て先生を訪はんとす。偶ま事故ありて果さず。爾後先生捐館〔えんかん=死去〕。而して同氏追慕の念、平昔忘れず。然るに富田氏は、多年先生の門に在り、所謂興國安民の法を受け、後ち藩主の顧問に備はり、天保弘化の際、先生の方法を奉し、窮民を撫安し、荒蕪を開墾し、刻苦従事廿余年、竟に管内の衰を興し、富に復するの功績を遂ぐるに至る。蓋し西郷氏、此等の経歴あるを聞き、其文を求るなり)
余、即ち相馬誠胤君(旧中村藩主)の蔵する所、富田氏嘗て同君へ建議せし数篇(知賢、弁良奸、利民、其中に在り)を伝示せしに、西郷氏其文を賞し其志に感ずと。
此より後ち、該稿西郷氏の手に在りしが爲めに、知らざるもの、観て以て同氏の文と做し、甲伝へ、乙逓へ、遂に世上に流布するに至るや明らかなり。
右、近世詩文名家詩文等の如きもの、看官〔読者の意〕、実を諒せんことを是れ望む
外桜田寓 福島県士族 志賀直道
ポイントをまとめると、西郷隆盛は二宮金次郎を尊敬していたが、直接会うことができないまま二宮は他界してしまった。しかし富田高慶が二宮の高弟であることを知った西郷は、富田が書いた文を、私を仲介して入手した。その文が西郷の手元に残され、事情を知らぬ者が西郷自身の文と勘違いして出版した、ということである。
これを知った当の富田が困惑し、訂正を志賀直道に依頼した。そして今回の投書に至った、というわけなのだ。
さてしかし、この話は、これで訂正されて終わり、とはならなかった。この投書をきっかけとして何が起こったか、それは次の投書に記されている。
『東京日日新聞』1878年11月18日
最初の投書から4カ月経ち、再び志賀直道の投書が掲載された。
これもそれほど長くないため、いくつかに分け、全文を引用しよう。
嚢〔さ〕きに東京日々新聞廣告欄内に於て、名家詩文中、西郷隆盛の作文、知賢、弁良奸、利民の三篇は、富田高慶の著にして、西郷氏の文に非ず云々と予が廣告せし件に対し、中馬秀盛氏は、嘗〔かつ〕て該篇を文明新誌中西郷氏の文中に登録せられ、且、當時該新誌編集長の責任を負ふを以て黙視するに忍びずとて、同新聞第弐千壹号寄書欄内に、此事を駁論せられし末に、世人誤て好事者の妄説を信ずる勿れと、崑崙呑棗〔こんろんどんそう=鵜呑みにするな、といった意〕の口吻を逞しくせられたり。
ここに登場する「中馬秀盛」とは、1877年に廃刊となった『文明新誌』という新聞の編集長である。
投書によれば、中馬が編集長のときに、『文明新誌』に問題の西郷の文が掲載された。その文が西郷のものでないと指摘されたため、中馬はそれを黙認できず、弁駁を『東京日日新聞』に投書し、「第貮千壹号」(8月5日)に掲載された。
そして中馬は弁駁中、志賀の説明を「好事者の妄説」とまで罵ったため、志賀が反論したのである。
上につづき、志賀は8月から3ヶ月以上経って反論したのは事情があったとしたうえで、あらたに松方正義の名を示しつつ、富田の文が西郷に渡った経緯を説明している。
予、其説を聞くや直に之を弁明せんと擬せしが、偶〔たまたま〕事故ありて暇を得ず、今(遅蒔ながら)茲〔ここ〕に答記す。
抑も予が廣告せしは、豈事を好んで故さらに異説を立たるならんや。余は現に、富田氏の文稿(知賢、弁良奸、利民、賄賂生財等の諸篇此中に在り)を松方正義君に致し、同君より西郷氏へ伝へたるなり。
富田氏は、自著の文を西郷氏の文中に置くは愧赧〔きたん=赤面〕なりと謙遜の意より出て、某誤正を予に嘱せり。
原来、予は此文を伝へたるの紹介人なり。富田氏は此文を綴るの本人なり。
此の如く明々白々の證跡あるを、中馬氏は一筆に抹殺して謾〔みだり、か〕に好事者の妄説と指称されしは、其意向の在るところ、何の点に存するやを了解し能はざるなり。
所謂好事者の妄説とは、直道にある歟〔か〕、将た夫子〔中馬を指す〕の自道にある歟、世上の具眼者、冀くは涇渭〔けいい=白黒、ほどの意〕の高判を賜へ
福島県士族 志賀直道
つまり、私(志賀)の側にはいろいろな証拠があるにもかかわらず、中馬氏はそれを問答無用で「一筆に抹殺」するとは一体どういうつもりかと、怒りのにじんだ文章で反論している。
そして最後に、「好事者の妄説」を唱えているのは、私なのか、中馬氏なのか、世の見識ある人よ、ねがわくは白黒の判断を下してほしいと訴えるのであった。
※ ※ ※ ※ ※
さて本来であれば、ここで中馬の投書も紹介するのが筋だろう。しかし今回は引用の分量が多く、管理人が力尽きました。そのため次回掲載します……としたいところだが、じつは中馬の弁駁が掲載される直前に、西郷の詩文を掲載した『名家詩文』の編集者・三宅虎太からの返答が、『朝野新聞』『東京日日新聞』に掲載されていた。その三宅の投書を踏まえたうえで、中馬が弁駁しているのである。
そこでここは時系列に沿ったほうが分かりやすいため、先に三宅の投書を紹介し、そのあとで中馬の投書を見ていくこととしたい。
よって今回の話題は全3回にわたって展開されるという、本ブログ始まって以来の(と、りきむほどのことでもない)長編である。論争の結末や如何。
参考資料
『明治過去帳』
志賀直道について、『明治過去帳』には次のように記されている。
志賀 直道 贈正四位二宮尊徳高弟 総武鐵道株式會社常務取締役志賀直温父。旧相馬藩世臣にして、文政十年生まる。明治三十九年一月十三日胃癌を以て歿す。年八十。
念のため補足しておくと、「総武鐵道株式會社常務取締役」は、「志賀直温」である。そしてこの志賀直温が、志賀直哉の父。
志賀直道については、ネット上に断片的な情報がいろいろあるが、ここでは割愛した。
※出典:大植四郎編著『明治過去帳』東京美術、1988年
※なおこのブログのもととなった論文の表では、志賀の生年を1818年としていたが、正しくは1827(文政10)年である。和暦(元号)から西暦に変換するさいに、まれに計算ミスをしてしまっていることがあり、これはまったく管理人の注意不足。
投書一覧
- 『朝野新聞』1878(明治11)年7月4日
無題(西郷隆盛の詩文について) - 『東京日日新聞』1878(明治11)年11月18日
無題(中馬秀盛氏への反論)

