投書者file.012:石上暁了

略歴

石上暁了は、富山出身の学校教員、真宗僧侶。平民。1849年~1880年。前回紹介した石上北天の実弟である。兄弟そろって投書が掲載される例はあまりない。

投書

石上暁了の投書は3件ある。1件目は学校用教科書の不足を解消する方策の提案、2件目は真宗の大教院分離について、3件目はキリスト教の流入にかんする問題。3件目の投書はややまとまりに欠けるため、1、2件目の投書のみ紹介する。

『日新真事誌』1873年10月7日

投書は一般論から始まる。

夫〔それ〕、事の能〔よく〕成立するものは、之を保護し、其成立する不能〔あたわざる〕ものは、之を協力救援する、人生公同の要務也。

※〔〕内は引用者(管理人)による読み等の補足

これは「学校」にも当てはまる。すなわち「無智」を救援し解消するため、全国津々浦々に学校がつくられているのだという。

而して人生最大必需の無智を化して智となし、懶惰を化して勉励となさしむるは、学業の上に出るものなし。然るに時勢その機に應ずと雖も、人情未だその域に進まず、故に本官〔政治家、官僚〕その自立する不能ものを救援し、全国学校創立に相成、中校あらざるの都なく、小校あらざるの邑なからしむ。

しかし、学業を全うするには書籍(教科書)が必要だが、その教科書を扱う書肆が少ないという問題があることを暁了は指摘する。

而して書籍の学校に於る、猶魚の水に於るが如し。学校百般の制規、厳然たりと雖も、書籍なくんば豈その業を終始するを得ん。……追々各県にも大中小学設立有之〔これあり〕、旧来の書肆に募るに、その小学教則の書すら乏しく、況や必読の書に於ておや。

「書籍の学校に於る、猶魚の水に於るが如し」という譬えはなかなか面白い。

暁了はさらに書肆の少なさに加え、書籍の価格が一定しないことも問題視する。

又、書価一定せず、乃至甲の書肆に50銭にて売捌書は、乙の書肆には51、2銭より4、5銭に売捌、詰問すれば運送賃否云云と諉し〔言い訳し、ほどの意〕、定価附印の書すら浪〔みだ〕りに之を抑揚す。是奸商の常なり。

書肆にも不心得者がいて、価格を不当に釣り上げる「奸商」もいたのだ。

こうした問題を解消するために、石上が提案するのが、教科書を一手に取り扱う専門書店の設立である。

若し此予防を為さんと欲せば、書籍売捌義社を設け、大学本部毎に本店を構え、地方の便宜に随て枝店を設け、中小の区別に関せず人民湊会の地毎に分店を置き、学制教則の書籍は大中小の学区、地位、従学の人員に照準し、原本訳書悉く之を備積し……

といったように、教科書その他学業に必要な書籍を専門にあつかう書肆を設立し、誰でも購入できるようにすればよい、というのが暁了の案である。

若し予愚案の如く、義社公許開店候へば、全国普く文明の重澤を蒙り、苟〔いやしく〕も学業に志ある者をして、左購右購、遂に書籍の乏の憂なからしむ。百般の不便不明の悪弊を刈除し、至便至明の化域に進趨せしむ、豈一大良法にあらずや。

さてその後暁了の提案のように、教科書専門書店は設立されたのだろうか。

この点については残念ながら管理人の不勉強によりよく分からない。書店については以前、論文執筆のためにかなり調査したことがあるのだが、そのときそれらしい書店はなかったと記憶している(なおこの論文はその後致命的な問題が判明し頓挫しました)。

投書が掲載された1873(明治6)年は、いまだ世上が安定しない時期であった。おそらくは1877(明治10)年の西南戦争後あたりから、各地の騒擾が収束するとともに、書籍入手の問題はしだいに解消していったのではないかと思う。

『日新真事誌』1874年3月2日

この投書は、前年から主張されるようになっていた、真宗の大教院からの分離について述べている。

大教院とは、1872(明治5)年、明治政府が仏教各宗に神道を加え、各宗各派の教導職のもと民衆を教化する目的で設立した機関である。しかし仏教と神道の対立、それに伴う混乱もあり、1873(明治6)年に浄土真宗の島地黙雷が、真宗の大教院からの分離を求めて建白を始めたことが、この分離運動の始まりである。

さて石上の投書は、分離を支持する立場から書かれており、上述の対立・混乱から生じる問題を、口を極めて批判している。たとえば次のような調子である。

祠官僧侶、諂諛阿党〔てんゆあとう=へつらい、おもねる、といった意味〕し、神仏を愚弄し、教義を戯遊にす。顧〔おも〕ふに祠官は仏徒を掠めて神教に誑入し、僧侶は神威を仮りて釈教を盛大にせんとし、彼に頼依し、此れに雷同し、虎威を仮る者に非れば、驥尾に附する者か。満院の教導者、詐術権謀の外、別の心腸なく、虚偽誑欺の外、別の面目なし。

「愚弄」「掠め」「虚偽誑欺」など、気持ち良いほど容赦がない。こうした状況である以上、真宗が分離を求めるのも当然である。しかしこのような消極的な理由だけでなく、より積極的な意味があることも示している。

人に依らず、他に阿らず、吾教固有の感化を以て民心を勧奨せんをする、其独立不羈の精神に至りては、奚〔いずくん〕ぞ之を美せざるを得んや。……是真に自主自由の極地なり。此心ありて行事を正くし、他に求めずして力を尽くさば、一身の独立なり、一家の独立なり、家々の独立は即ち一国の独立なり。是実に今日民に教ゆべき急務にして……

すなわち教法も人も同じで、「独立不羈の精神」のもと「自主自由」を推し進めていけば、「一身の独立」、ひいては「国家の独立」につながるというのだ。

このような福沢諭吉流の「独立」論をも援用しつつ、真宗の分離、すなわち「独立」の必要性を論じるのである(なおここでは宗教とナショナリズムが矛盾なく共存することが前提となっているが、これはいうまでもなく近代日本における大きな問題のひとつである)。

ちなみに暁了は仏寺出身だが、この時期は寺を離れ、学校の教員をしていたらしい。この投書でも、自らを「教外の者」とし、署名にも

府下寄留 新川県学校教員

とあり、さきほどの1件目の投書にも、

府下美土代町二丁目一番地林範平寄留 新川県下越中国射水郡伏木小学校副師範

と署名されていた。

翌年(1875年)には僧侶に復したようだが、この後に触れる暁了の小伝は、1880(明治13)年、31歳という若さで世を去ったと伝えている。

参考資料

『明治建白書集成』第2巻、第3巻

石上暁了は建白を比較的さかんに行なっており、6件の建白書がある。

  1.  1873(明治6)年11月 「(暴動予防之議)」
  2.  同11月 「書店設立之議」
  3.  同12月 「(暴動予防之再議)」
  4.  1874(明治7)年2月 「(新川県下旧富山藩合併寺院復故之議)」
  5.  同4月 「(新川県下旧富山藩合併寺院復故之再議)」
  6.  同6月 「(新川県下旧富山藩合併寺院復故之三議)」

()内の題目は、『集成』編者が、題目のない建白に、内容を推し量って付けたものである。

建白には署名とともに年齢も記されており、たとえば1.の建白には、1873(明治6)年11月時点で24歳とある。これを満年齢として、生年を1849年と推定した。

2件目の建白は書店の設立を扱っており、さきの投書1件目とほとんど同時期であるため、両者の内容も同じと思われるが、残念ながら建白のほうは未見。

4件目から6件目は、出身地・新川県の寺院が合併されたことで問題が生じたため合併の解消を建白している。内容は兄の北天の投書で述べられていたことと同様である。

出典:色川大吉・我部政男監修『明治建白書集成』第2巻、第3巻 筑摩書房

『血染めの都城真宗史』(出版年不明)

タイトルが穏やかでない。内容は真宗の歴史らしい。国会図書館でデジタル化されているが、ネット公開はされていない。目次のみテキスト化され、閲覧できる。

この書籍に「石上暁了の活躍」という項があり、1880(明治13)年に没したとされている。

出典:国会図書館デジタルコレクション(福永勝美『血染めの都城真宗史』

飛鳥寛栗『越中僧・薩摩開教の記憶 石上暁了・野崎流天・藤枝令道』(2015年)

サブタイトルに石上暁了の名があり、また出版社サイトに掲載されている目次から、暁了についてかなり詳細な情報が掲載されていることがわかる。

残念ながら管理人の論文(about参照)執筆後に発行されたものであるため、内容未見。

ちなみに著者はネットの情報によると、暁了の孫にあたる方らしい。いずれ読んでみたいと思います。

出典:桂書房Webサイト(http://www.katsurabook.com/booklist/825/

投書一覧

  1.  『日新真事誌』1873(明治6)年10月7日
    無題(学校教科書用の書店設立の提案)
  2.  『日新真事誌』1874(明治7)年3月2日
    無題(真宗の大教院からの分離)
  3.  『日新真事誌』1875(明治8)年1月9日
    無題(キリスト教の流入)
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