投書者file.008:遊佐高開

略歴

遊佐高開は、北海道(開拓使)の官員。士族。生没年不詳。官員録では本籍(貫属)が開拓使となっている。「遊佐」という「氏」から、出生地は東北地方と思われるが、それを裏づける史料がないため、官員録および投書の内容にしたがって本籍を北海道とした。

投書

遊佐高開の投書は4件。うち2件の内容は同じ。投書内で農学を学んでいることを明らかにしており、いずれの投書でも農業への言及がある。

投書は1873年9月から10月のあいだに掲載されている。おそらく一時期に集中的に投書したのだろう。

『日新真事誌』1873(明治6)年9月19日

遊佐の最初の投書は、農業の発展が、農業関連の学問を学ぶことにあると説く。

「夫れ農は国の基たる、論を俟たざるなり。然るに我邦の農は十に八九は固陋無学にして、農の最も枢要なる天文地理動物機械舎密等の諸課を講究するもの少なり。」

では「諸課を講究」しないまま、農業を始めるとどうなるか。

「之〔動物〕を牧せんとして牧殺し、之(植物)を培養せんとして培殺」

「牧殺」「培殺」とは、なかなか辛辣な評である。

「我邦」のこうした現状に比して、西洋諸国はどうか。

「彼西洋富国と称する国の如きは、農業の学術大に開け、天地の経緯を測り、山河の形勢を察し、気候の寒暖を験み、土質を弁じ、……故に蕃殖せざるなく」

このように、西洋の農業は「実に至れりと云べし」状況である。それはなぜかといえば、「先に云る学課を講究し、民頗る農学に達すればなり」。

しかし近年は日本においても状況が変わりつつある。

「今や地方管下に郷学校を置かれ……文化の域に至らんとすれば、敢て僕の贅言をまたず。地方の諸君子必ずここに注意し、農法必需の学課を設け、之を毎校に教授せしめば、年を期して富国に至るや必せり」

すでに農業改善の兆しがある以上「僕の贅言をまたず」とは言いつつも、それでも言わざるをえなかった理由が、この後に記されている。

「僕は既に農業の一生となり、米国人に従学し、専ら物産富殖の基業を更張するの微衷なれば、公議のかかるところ己れのみ能くするを欲せず。○○〔判読不能〕と共に鴻益を挙んとす。依て今貴社に附して廣く公告せんとす。」

かんたんにいえば、自分だけでなく多くの人々に、農業を講究することの効用を知ってもらいたい、ということである。

『郵便報知新聞』1873(明治6)年10月9日

上の投書の20日後、『郵便報知新聞』に掲載された投書は、フランスのカボチャの話。この5日後に『東京日日新聞』に掲載された投書も、ほぼ同文、同内容である。

「開拓使御用地青山南町七丁目一號園にて、仏国より舶来の南瓜種子を春来より培養するに、曾て聞しに劣らぬ品を此頃採収せり」

「開拓使」関連の内容であることから、遊佐高開はこの時期にはすでに開拓使官員として出仕していたと推測される。

ところでどんなカボチャが採れたのか。

「其形楕円にして其色淡青淡赤の二種あり。其周囲は六尺乃至六尺五六寸、其秤量は拾四五貫目以上なり。」

外周が6尺(約1m80cm)以上というから、両手で囲むように抱えても手が回りきらないほどの大きさである。

では味はどうか。

「此を牛豚に與ふるに、好で食ふこと他の南瓜の比に非ず」

すくなくとも牛や豚の口には合ったらしい。

さて今回採れたカボチャの栽培は、通常の栽培法で行なわれたようだ。

「此れ尋常の培養にすら如此なる種類なれば、五代相伝の農学家・佐藤信淵が積年実験の後ち著述せる、草木六部耕種法の大なる瓢〔ふくべ=ひょうたん〕を作るの手術を斟酌し、以て此を培養するときは、いかばかり大なる品を得らるゝか測り知るべからず。」

江戸時代の著名な農学者・佐藤信淵の名を挙げ、その栽培法を応用すれば、さらに大きなカボチャを収穫できるだろう。遊佐はこう述べ、このあとに佐藤信淵が残したという栽培法を記している(これは割愛)。

『日新真事誌』1873(明治6)年10月30日

3件目、遊佐の最後の投書は、秩禄処分に始まり、北海道開拓を経由して、国益に終わる、といった内容である。

「近来各社の新聞紙を一○〔判読不能だが、「一看」か〕するに、貫属の名録を廃せんとするの議論、挙て算すべからず」

「貫属の名録を廃せん」とは、それまで士族などが明治政府から受け取っていた俸禄(ただでもらえる給料のようなもの)を廃止する、ということ。これが秩禄処分で、士族が俸禄を失うと、自ら働いて稼いでいかなければならないため、これをめぐって無数の議論が沸き起こった。

「尸位素餐〔しいそさん〕」(ただ飯食い)の士族にとって、自ら働くことは多くの困難が伴う。遊佐もそれを指摘する。

「農たらんと欲して田園なく、工〔職人〕たらんと欲して成業速かならず、商たらんと欲して資本なく」

働くのが容易ではない、というにとどまらない。

「商となる者……奸商等の餌となるのみならず、資本をも消却、甚だしきに至りては、糊口に迫り、身狼狽、家族離散、婢僕となる者も亦不少〔すくなからず〕」

秩禄処分によって、いわゆる没落士族が続々と生まれてしまうのだ。

そこで遊佐が提案するのが、農業である。だが農地が少ない、という問題もある。

「農となり、筋骨を労し、土地を開き、万全の策を立るの志を存すれども、如何せん土地少きには」

そこで遊佐がさらに提案するのが、北海道での開墾である。

「夫れ北海道の地位たるや、北緯41度より45度20分に亘り、東京以東4度14分に起り11度に止まり、山には佳木良材繁茂し、百河萬流原野最も豊穣にして……」

このあとも、北海道における農業の利益がいかに多いか、東北や西洋など他地域と比べても作物の出来に遜色のないことなど、やや我田引水の感があるが、延々と続く。

しかし投書後半に至って、遊佐が北海道を勧める理由が他にもあることが示される。それはロシアとの関係である。

「此地や北は魯西亜に接し、既に樺太洲の如きは魯人と雑居、もとより肥沃の地たる、彼れ〔ロシアのこと〕……之れを知り、動〔やや〕もすれば奸心を逞〔たくましく〕し……実に我北門たる論を俟たざる也。官亦之れを守護せざるを得ず。」

樺太で雑居するロシア人が南下しようとする情勢にあって、北海道はそれを防ぐ「北門」なのだという。

「陽に北門の鎖鑰〔さやく=錠と鍵〕となり、陰に山野を開拓せん……上は朝廷の御旨意を奉戴す。下は自己の衣食を足すのみならず、大に国の利益を起し、家禄自ら奉還するに至や必せり。」

北海道への移住は、このような2つの重要な意味を持っていると遊佐は主張する。

最後に読者に「熟考」を促して投書は締めくくられている。

「四方の君子熟考有らんことを、今貴社に托し白する者は、東京青山南町に寄留する開拓使貫属士族遊佐高開なり」

参考資料

『改正官員録』(1879年)

遊佐高開の名は、「開拓使」の「9等属」に記されている。この時期の開拓使は10等属まである。

多くの官員録では、官員の氏名にくわえ、本籍(貫属)も記載されている。この『改正官員録』にも記載があり、遊佐高開の本籍は「開拓」(使)である。

他の官員の本籍は、東北から九州まで全国各地におよんでいる。「東京」や「静岡」も多いが、ざっと見た限りでは、「開拓」がもっとも多い。

だが、開拓使が設置されたのが明治に入ってからであるため、「開拓」(使)を出生地という意味で本籍とする官員は、本来存在しない。

そのため、本籍が「開拓」となっている者は、他の府県から転入したと考えられる。しかし転入元を示す史料は見当たらない。そこで遊佐の本籍を「開拓」=北海道とした。

ちなみにこのときの開拓使長官は、黒田清隆。1881年、政府が開拓使官有物を格安で民間に払い下げ、それが発覚して政府批判の輿論が沸騰した、開拓使官有物払下げ事件の「黒幕」が黒田である。

※所蔵:「国立国会図書館デジタルコレクション(『改正官員録』明治12年 彦根貞編)」

投書一覧

  1. 『日新真事誌』1873(明治6)年9月19日
    無題(農業と学問)
  2. 『郵便報知新聞』1873(明治6)年10月9日
    無題(フランスのカボチャ)
  3. 『東京日日新聞』1873(明治6)年10月14日
    無題(2.の投書と同内容)
  4. 『日新真事誌』1873(明治6)年10月30日
    無題(士族・北海道・国益)
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