投書者file.007:早川正利
目次
略歴
早川正利は、新潟の名望家。平民。生没年不詳。府県会が開設されると新潟県会議員となった。早川の名は、県内の町名にもなっている。
投書
早川の投書は2件。いずれも『東京日日新聞』に掲載され、掲載日は1873年12月15日とその翌々日の17日である。
掲載日が近いため、長文の投書を2回に分けたのかと思われたが、それぞれ異なる投書だった。ただし内容はいずれも新潟港における貿易に関するものである。
『東京日日新聞』1873年12月15日
1件目の投書では、新潟港の問題点を指摘し、その解決のための緻密な方策を提案している。
冒頭で、新潟港の入口の深さが足りず、船の航行に支障が出ていることを指摘する。
「越後新潟の港口は、概深8、9尺に過ぎず。……巨船の出入する能はず。動〔やや〕もすれば瀬に衝當し〔突き当たり、の意〕、進退窮り、遂に破潰に及び、許多の物資を沈没するのみならず、人命を喪ふこと屢〔しばしば〕あり」
その結果、新潟港に寄港する船は減少し、外国船も少ない。
「因て、船舶の輻輳する、昔年に比すれば大に減ず。思ふに外国船の来る少きも此所以なり。実に国家の一患害と謂ざるべけんや」
こうなった原因は、かつて「信阿両川」(信濃川と阿賀野川)が合流して新潟港に注いでいたものが、近年「分流」して水流が弱くなり、新潟港が浅くなってしまったためであるという。
そこでその解決策として、信濃川と阿賀野川をふたたび合流させる「掘割」工事を行なうことを提案する。それによって、新潟港はかつてのような「深港」となり、「巨艦の出入自在を得べし」というのだ。
その工事費用の計算が周到である。
「右掘割入費を概算するに44万7千余金にして、落成すべし此経費を求むるの方法は、有志の人を募り会社を結ばしめ、1株百圓と割做し、4470余株なり。此株主をして出金せしめ、然る後8ヶ年の間、当港売買の歩合金取立の規則を設け、1ヶ年輸出入物価高凡そ6百万圓。其百分の2、年計12万圓を株主へ取らしむれば、元利の外、多くの利益あらん」
これを計算式で示すと、以下のようになる。
1株100円×4,470株=費用44万7千円
1年600万円の輸出入高×2%の歩合金=12万円
8年×12万円=96万円
この96万円で、株主に利益を還元するという計算である。
ところで当時の1円は、今の何円にあたるか。これは計算が難しいが、当時の1円はいまの1万円と考えて、あたらずとも遠からずといったところだろう。
これをもとに計算すると、さきほどの費用44万7千円は、44億7千万円になる。ちょっと金額が大きすぎるか…。
それはさておき、こうして新潟港での貿易が盛んになれば、他の地域にもその恩恵がもたらされるという。
「加之、貿易の盛なるに随ひ、当国は勿論、信岩羽〔信濃・岩代・羽後と思われる〕の三隣国も、倍々物産の繁殖する必せり」
そして最後に読者の意見を聞きたいとして、投書を終えている。
「この得失利害の概略を記載して、大方の有志に謀り、且高諭を聞んと貴社を煩し、新聞の余白を汚すものは新潟県下平民早川正利なり」
なお投書の末尾で「…新聞の余白を汚すものは」といったフレーズにつづけて名を名乗る書き方は、当時の投書でよく用いられている。
『東京日日新聞』1873年12月17日
さて、その翌々日に掲載された早川の投書は、1カ月前に『東京日日新聞』に掲載された「岡村清吉」という人物の投書の内容について、疑義を呈するものだった。
岡村清吉は、自身の投書のなかで、新潟と沼垂(ぬったり)の間に、信濃川をまたがる橋を架けることを提案していたが、早川は、その架橋の入費の計算に大きな誤りがあることを指摘した。
早川はこの投書においても、さきの投書同様、細かい計算結果を提示している。内容は省略するが、いずれにせよ早川は、新潟の地を繁栄させるため、緻密な測量と具体的な計算にもとづいて計画を立て、それを世に問うていたのである。
そしてその約10年後、府県会が全国に設置されると、早川は自ら新潟県会議員となり、新潟の発展のためのさらなる尽力を惜しまなかった。まさに「名望家」と呼ぶにふさわしい人物だったといえるのではないだろうか。
参考資料
『明治建白書集成 第6巻』
早川正利は、1881(明治14)年5月、鍵富三作らとともに、「新潟港御修築之儀ニ付嘆願書」という題の建白書を明治政府に提出している(内容未見)。
投書掲載から8年近くが経っているが、依然として新潟港の改善に奔走していたのである。
『府県会議員姓名録』(1883年)
全国の府県会議員の住所氏名を収載した書籍。投書からやや時代は下るが、この時期の府県会議員の多くは地方の名望家(有力者)であったと考えられるため、議員であることが分かれば、その人物の社会的地位を考えるうえで参考になる。
そしてこの姓名録によれば、早川正利は新潟県会議員であった。住所は「新潟区西湊町三丁目」。族籍は「平民」と記載されている。
※所蔵:「国立国会図書館デジタルコレクション(呉文聡編『府県会議員姓名録』明治16年6月調(出版人:野村長三郎)」
『みなぽーと新潟 Vol.4 2008・春』
『みなぽーと新潟』は、NPO法人「新潟みなとクラブ」が発行している広報誌。この「Vol.4 2008・春」号に、早川の名が掲載されていた。
4ページの「町名の由来」という項目に、次のように記されている。
「町名の由来
運上所の周囲に広がる低湿地や砂丘地を町の有力者に屋敷地として分譲して開発させた。その土地には買い受けた者にちなんだ町名がつきました。早川正利の早川町、本間哲太郎の本間町、……(後略)……。」
※出典:『みなぽーと新潟 Vol.4 2008・春』(NPO法人新潟みなとクラブ広報誌)
※ちなみに新潟みなとクラブのサイトはこちら→http://minatoclub.la.coocan.jp/
投書一覧
- 『東京日日新聞』1873(明治6)年12月15日
(無題) - 『東京日日新聞』1873(明治6)年12月17日
(無題)

