投書者file.005:岩田徳義
目次
略歴
岩田徳義(いわたとくぎ)は、愛知県三河国岡崎の旧藩士(明治以降は士族)。1846(弘化3)年生。没年は不明だが、著書によると、1923年の関東大震災後まで存命だったようだ。明治初期には愛知・岐阜で読まれた『愛岐日報』という新聞の編集長であり、板垣退助とも知り合いだったらしい。
投書
投書は3件ある。最初の投書は『日新真事誌』、1874年10月24日に掲載された。投書の署名は、「愛知県岡崎士族 東京芝中門前寓 岩田徳義」であり、この時期は東京に寄留していたことがわかる。
投書が掲載されたのは、同年の「台湾出兵」ののち、日清両国が戦端を開くか否かという一触即発の交渉を行っている最中であった。当時の多くの士族がそうだったように、岩田もこの問題には多大な関心を払っていた。
「目下、日清両国の間に事あらんと欲するに際し、…(中略)…今日の勢必ず一戦せざるを得ず」
岩田はこのように、日清の戦争が避けられない情勢にあると考えていた。つづけて岩田は、「彼れ(清国)は大国なり我は小国なり」と力の差があることを認めながらも、「上下の臣民、各其義務を尽くす」ことで対抗できると、やや精神論めいた議論を展開する。だがこの1週間後に日清両国の交渉は妥結し、岩田が予想したような事態には至らなかった。
そのほぼ4ヶ月後の1875(明治8)年2月に『郵便報知新聞』に掲載された投書では、「巡査規則の疑問」という題が付され、違式詿違(いしきかいい)条例について論じている。
違式詿違条例とは、立小便の禁止など、今日の軽犯罪法にあたる条例である。江戸時代から明治の初めまで、人びとがごく普通に行なっていた行為や風俗の多くが、この条例によって禁止された。
そして条例にもとづいて実際に取り締まりを行なったのが、巡査(警察官)である。岩田はこの巡査による運用の実態について疑問を呈した。
「現今巡査司掌する処の違式詿違の犯罪を取扱ふの上に於て、少しく疑ひなき能はず」
条例に違反すると、規定では罰金などが科されるが、「勅奏任官」(中・上級の官員)や「華族」(元大名)などはお咎めなしで放免されてしまうというのである。
「判任官其他の士民」は「警官屯所に誘引拘留」されるが、「勅奏任官華族の輩」に対しては「僅かに此を咎むるも、其名刺を取るに過ぎざるのみ」であり、「是れ其疑惑の釈然たるを得ざる処なり」
このような特権的な扱いが存在することで、国民が上下一体となって「国力強固」「民治安寧」を実現することも不可能となってしまうのだ、というのが岩田の主張である。
だが当時は、こうしたことが当然のように横行していた。
この時期の日本は、明治維新を主導した薩長(鹿児島・山口)出身者が特権を享受していた。条例によって人々を取り締まる巡査には、薩長出身者が一定数いた。また官員も、「勅奏任官」などの高位の役職は、やはり薩長閥が多くを占めていた。政治の世界は薩長閥によって事実上独占されていたのである。
岩田は士族ではあったが愛知出身であり、薩長閥の横暴を苦々しい思いで見ていたに違いない。その憤りが、この投書にあらわれている。
日清関係と違式詿違条例。岩田が投書で取り上げた対象は大きく異なる。しかしその主張は「ナショナル」な立場から一貫してなされている。
そして岩田は後に、自由民権運動に身を投じていくことになる。その背景には、岩田のこうした思想があったのである。
参考資料
『岩田徳義翁小伝』(1918年)
岩田徳義の晩年に刊行された伝記。冒頭で次のように述べられている。
「先生は愛知県三河国岡崎の旧藩士にして、本多家々臣の列にあり、弘化3年丙午歳8月21日を以て生る。幼字は初之助、長じて文蔵と云ひ、後に徳義と改む。祖父は勇治、祖母を秀と云ふ。幼にして父母共に歿するのゆへにより、専ら祖父母の手にて鞠育(きくいく)せられぬ。されば祖父母の愛殊に深く、只管成長の後を楽めり。…」
※所蔵:「国立国会図書館デジタルコレクション(教育奨励会編『岩田徳義翁小伝』)」
『読売新聞』1877年9月29日記事
当時の『読売新聞』にも岩田についての記事が掲載されている。この頃はすでに民権運動に関わっていたのだろう。記事には書かれていないが、政府批判を事実上禁じた新聞紙条例に抵触したということである。
愛岐日報の旧編集長岩田徳義さんは同新聞社説の事で罰金10円と禁獄2ヶ月申し付けられました
その他
岩田の編著書は数多くある。以下、国会図書館デジタルコレクションで公開されているものについて、書名、発行元および発行年を記す。
- 『米利堅合衆国政体並国会規律』(馬島維基, 1879)
- 『基督教と社会との関係』(東京聖教書類会社, 1888)
- 『社会改良論』(江藤書店, 1888)
- 『町村制詳解 : 市制正文插入』(啓文社, 1889)
- 『自由之光』(益友社, 1890)
- 『政談演説集』(益友社, 1892)
- 『郡制注釈』(益友社, 1897)
- 『日本外史論文講義』(中村鍾美堂, 1899)
- 『東京大阪義太夫芸評. 上巻』(教育奨励会, 1907)
- 『板垣伯岐阜遭難録』(対山書院, 1908)
- 『板垣伯岐阜遭難録』(對山書院, 1909)
- 『薩摩義士録 : 宝暦治水工事』(麻布学館, 1914)
- 『薩摩義士 : 浄瑠璃新作』(東京麻布学館, 1918)
- 『板垣伯岐阜遭難録』(麻布学館, 1921)
- 『宣ク震災ニ鑑ムベシ』(麻布学館, 1924)
投書一覧
- 『日新真事誌』1874(明治7)年10月24日
無題(日清関係) - 『郵便報知新聞』1875(明治8)年2月23日
「巡査規則の疑問」 - 『東京曙新聞』1875(明治8)年8月8日
(内容未見)
※『東京曙新聞』の紙面の大半が管理人の手元にないため、今回は割愛した。いずれコピーを入手して追記したい。

