投書者file.004:鳴門義民
目次
略歴
鳴門義民(よしたみ)は、徳島出身の英学者、大蔵省・内務省の官僚。平民。1835(天保6)年~1913(大正2)年。
投書
鳴門義民の投書は2件。『朝野新聞』と『郵便報知新聞』の2紙に、同じ日の1876(明治9)年1月29日に掲載されている。2件の投書は、わずかな言い回しの違いをのぞけば、ほぼ同文である。
投書のタイトルは、『朝野新聞』が「津田氏禾花媒助法を論ず」、『郵便報知新聞』が「津田氏禾花媒助法論」。
タイトルにある「津田氏」とは、『明六雑誌』に加わった津田仙である。津田仙は津田梅子の父でもある。「禾花」は稲の花、「禾花媒助法」とは、津田が欧州で学んだ稲の生育を促進する農法のこと。以下の引用には、『朝野新聞』の投書を用いている。
明治初年、鳴門義民は、官僚として農作物の害虫調査にあたり、投書当時は、内務省勧業寮に「中属」として勤務していた(詳細は「参考資料」の項を参照)。
こうした仕事上の関係で、津田仙の「禾花媒助法」にも大いに関心を抱いていたのだろう。投書の冒頭で、鳴門は次のように述べている。
「禾花媒助法」は「農家を益する一良法」として今日世人に認められ、この方法はしだいに「各地に伝播」している。私もまた、この方法を農家に「慫慂」(勧誘)し、たまにこの方法を否定する者がいれば、「陋見を頑守して新利に従わざるは農業上の進歩を閉塞するものなり」と批判するほど、この方法の普及を希望していた。
このように鳴門はこれまで多くの人々と同様に、「禾花媒助法」の効果を信じて疑わなかった。ところが、である。
「豈計らんや」(一体どうしたことか)、「方今各地の風説を聞くに、曰く、此媒助法は収穫の増加を以て其法を施したる所費を補うに足らず」、「又曰く、空気の流通宜しき田畑には曾て寸効を現さず」と。
つまり、媒助法を実施した各地の農家から、媒助法に要した費用をまかなうほどには収穫が増加せず、また風通しの良い田畑ではまったく効果がない、といった話が出てきているのである。
そのため鳴門は、「知己なる洋人数輩」に媒助法について尋ねたところ、欧米ではもはやほとんど用いられていないという。
「曰く……欧米各国方今之を用ゆるもの甚だ罕(まれ)なりと」
こうした返答に鳴門はショックを受けたのであろう。
「今日まで余輩が左袒(=味方)せしところの媒助法は、農家をして時間と天物とを空費徒耗せしむるに過ぎざるのみ。豈有益の一良法と云うを得んや」
しかし鳴門は、物事を実証的に考える人物であった。
「然りと雖(いえど)も、余は此諸説を偏信して俄かに媒助法を駁せんとするにはあらず」とし、今後「数歳間、精細の試験を経ざる間は漫(みだ)りに其得失を定めがたき」と述べる。そして最後に次のように訴える。「世上媒助法に篤志の諸君、軽躁妄信せずして数年間真個の試験に従事せられんことを」
媒助法はその後、政府によって公式にその効果が否定され、用いる者はいなくなる。しかし失敗に終わったとはいえ、津田仙の媒助法は、農業を科学的に改良する機運が広まるきっかけとなったともいわれている。
参考資料
各種人名事典
鳴門義民は比較的著名な人物であったらしく、複数の人名辞典に掲載されていた。以下、抜粋して引用する。
・日外アソシエーツ編集部『新訂増補人物レファレンス事典 明治・大正・昭和(戦前)編 す~わ』
江戸時代末期・明治期の英学者、官吏。米国使節来日の際、通訳を務める。
・日外アソシエーツ編集部『人物レファレンス事典 郷土人物編 そ~ん』
害虫駆除のパイオニアで、メイチュウの駆除法、予防法、調査方法に大きく貢献。
・安岡昭男編『幕末維新大人名事典 下』
阿波国美馬郡の槍術家佐々三太夫の三男。大坂に出て英語を中浜万次郎に学び、安政3年、米国使節来日の時通訳を務めた。鳴門と改姓し、東京で外国雑貨商また英学塾を始めた。その後に政府の勧業寮属として農作物の害虫を調査、駆除と予防法を指導。明治13年に駒場農学校植医科の教員となり、翌年に農務局から英人カルチスの『哥氏田圃虫書』(訳)が刊行された。(三好昭一郎)
各種官員録
鳴門義民の名は多数の官員録に記載されている。以下、官員録のタイトルと鳴門の所属・官等(等級)のみ記す。
- 『袖珍官員録』(明治6年1月 須原屋・和泉屋版)
大蔵省租税寮「権中属」 - 『掌中官員録』(明治7年10月 西村組商会)
内務省勧業寮「中属」 - 『内務省職員録』(明治8年4月)
内務省勧業寮「中属」 - 『官員録』(明治9年2月改正 西村組出版局)
内務省勧業寮「中属」 - 『官員録』(明治10年8月 日暮忠誠編)
内務省勧農局「五等属」 - 『内務省職員録』(明治11年1月調)
内務省勧農局「五等属」 - 『改正官員録』(明治12年 彦根貞編)
内務省勧農局「五等属」
※所蔵:国立国会図書館(調査当時はデジタル化されていなかったが、現在の公開状況は未確認)
その他
今回改めて鳴門義民について調べたところ、その生涯について記述した論文の存在を知った。たいへん詳細な調査が行われており、鳴門義民に関心を持たれた方は必読。
佐光昭二,1990,「鳴門義民・その人と業績」『英学史研究』1991(23):115-131.
管理人が投書者の論文を執筆するさい、手持ちの事典である程度の経歴が判明した場合、それ以上の調査は行なわなかった。しかし、上記佐光論文によると、多くの事典に記載されている鳴門の没年に誤りがある。事典では1914年となっているものが多いが、墓碑銘などによると、1913年が正しいという。そこで佐光に従い、このブログでも1913年を没年とした。
なお津田仙および媒助法に関しては以下の論文を参考にした。
並松信久,2013,「明治期における津田仙の啓蒙活動:欧米農業の普及とキリスト教の役割」『京都産業大学論集 社会科学系列』30:85-122.
投書一覧
-
『朝野新聞』1876(明治9)年1月29日
「津田氏禾花媒助法を論ず」 -
『郵便報知新聞』1876(明治9)年1月29日
「津田氏禾花媒助法論」

