投書者file.003:大野松齋
目次
略歴
大野松齋(しょうさい)は種痘の名医として伝えられている(種痘とは、天然痘のワクチンを接種すること)。秋田出身。族籍不明。1819(文政2)年~1888(明治21)年。
投書
大野松齋の投書は3件ある。いずれも種痘に関するもの。最初の投書は、『東京日日新聞』1873(明治6)年6月3日に掲載されている。
今般長与専斎が西洋より持ち帰った「牛痘新苗」〔天然痘のワクチン〕を試したところ、非常な効果があった。そこで「四方有志の徒に告ぐ」、すみやかにこの「新苗」の接種を受け、「生涯の大厄を免れ玉わん」ことを。
その2年後、『朝野新聞』1875(明治8)年2月14日に掲載された投書は、『郵便報知新聞』に掲載された種痘に関する記事の誤りを指摘している。
「報知新聞第583号を読むに、天然痘苗を以て皇后宮に種痘せし抔と無稽の事を記載するは嗚呼何ものの痴漢か」
『郵便報知新聞』1875(明治8)年2月8日に、皇后に種痘したさいの経緯が記事として掲載されたが、それはまったく「無稽の事」(根拠がない)と批判しているのである。
『郵便報知新聞』の記事の内容は、管理人が種痘に不案内で心許ないが、かなりおおざっぱにいうと、天然痘にかかった人に生じた膿疱(のうほう)を採取し、それをワクチンとして別の者に接種する「人痘法」という方法が、皇后に用いられた、ということらしい。
ではなぜこの記事を、松齋は批判したのか。それを理解するには、「牛痘法」を知らなければならない。「牛痘法」は、これも管理人の理解が怪しいが、おおよそ次のような方法である。
「牛痘法」とは、まず天然痘にかかった「牛」がいる。この牛の天然痘(これを「牛痘」と呼ぶ)が、人に感染する。牛痘は、天然痘に比べ感染力が弱く、人が感染しても膿疱が生じるだけで治癒する。一度牛痘にかかると、その後天然痘に感染することはない。そして牛痘に感染した人に生じた膿疱が、天然痘のワクチンとなることを、イギリスのジェンナーが発見し、広めた。これが「牛痘法」ということのようだ。
そして「人痘法」には死に至るリスクが残っていたのに対して、「牛痘法」は安全だということである。そのため当時の日本では、「牛痘法」が採用されていた。
しかし『郵便報知新聞』は、「人痘法」が皇后に用いられたという記事を掲載した。そのため松齋は、これを事実無根として否定し、以下のような経緯が事実であるとして投書したのである。
「皇后宮御種痘被為遊に付、献上なりし痘苗の原根は、馬喰町四丁目文部省牛痘種継所より良善の痘苗を得て、一月一日左の数名に種痘せり」
(つづいてここに小児2名の住所・姓名など)
「右等は其善痘美感最上の真牛痘を発するを以て大医の精選を蒙り御痘苗を奉るに決したり」
このあとも種痘の経緯についての説明が続くが、詳細は煩雑であるため省略。ひとことでいえば、皇后に用いられたのは「牛痘法」、ということである。
さてこの投書が掲載されたわずか3日後、『日新真事誌』に松齋の投書が掲載された。しかしこれは上記の投書とほとんど同じ内容、文章であった。こうしたことは実はときどきあることで、同時に複数の新聞に投書し、掲載されることは他の投書者でもみられる。
参考資料
『読売新聞』1878年2月5日広告ほか
『読売新聞』の広告にも、大野松齋の名がみえる。1878(明治11)年2月5日の広告では、次のように記されている(カッコ内は原文ではルビ)。
「昨冬より処方の縣地(いなか)に天然痘(はやりほうそう)流行せしに、此せつ東京府下に伝播(うつり)し至極の悪性痘(あしきほうそう)なれば、皆さま御子供衆のある方は予防(ふせぎ)のため一刻もはやく種痘(うえぼうそう)したまはん事を希ふものは 大野松齋」
また1879(明治12)年5月2日の『読売新聞』の広告では、種痘積善社の一員としてその名が掲載されている。
「今般他県下に於て天然痘流行に付其筋より種痘証書御検査相成候間、種痘料自弁し能ざる人は当社員自宅に於て施種いたし候」
(以下、社員の住所氏名が続く)
種痘積善社は、大野松齋ら種痘医が中心となって1877(明治10)年に東京で設立された。有志の寄付により活動し、天然痘が流行した当時、無料で予防接種を行なった。
『種痘弁疑. 続』1881年
この文献は、積善社の事績を記録しており、大野松齋の名もある。国会図書館のデジタルコレクションで公開されている。
※所蔵:「国立国会図書館デジタルコレクション(坂本董野『種痘弁疑. 続』)」
『明治過去帳』
『明治過去帳』は、故・大植四郎氏が10歳のころから生涯をかけて収集した2万余名の物故者の「忌辰録」(命日順の人名録)である。これも人名部分のみがデータベース化され、国会図書館の「リサーチ・ナビ」から検索できるようになっている。
松齋については、次のように記載されている。
「大野松齋 種痘医 後備軍躯員陸軍一等軍医正七位大野恒徳の養父にして文政二年生れ明治廿一年七月十七日歿す年七十配孝子も相次いで歿す」
その他
今回改めてネットを検索し、松齋について詳しく書かれた文章が、いくつもあることを知った。たとえば日本医史学会は、松齋の事績をくわしく伝えている(鈴木達彦・荻原通弘「種痘医 大野松斎の事績」など。リンク先はPDFファイル)。
上記の記事から一部を引用させていただく。
「松斎の根付には「必救千児」と彫られていたという。松斎は皇族、華族に痘苗を献上、接種する一方で、自ら街中に出向いて懐中に忍ばせたサツマイモや菓子をちらつかせて貧しい子供たちを自宅に迎え入れて種痘をするといったように、まさに貴賤を問わず種痘の普及に努めた」(『日本医史学会雑誌』第60巻第2号、213ページ)
投書一覧
- 『東京日日新聞』1873(明治6)年6月3日
無題(種痘の知らせ) - 『朝野新聞』1875(明治8)年2月14日
無題(皇后宮への種痘について) - 『日新真事誌』1875(明治8)年2月17日
無題(皇后宮への種痘について)

