投書者file.002:平田義訓

略歴

平田義訓は、三潴(みづま)県(現・福岡県南西部)の官員。族籍は不明だが、士族と推測される。生没年不詳。出身は岡山県。

投書

平田の投書は1件。1873(明治6)年9月16日の『東京日日新聞』に掲載された。平田は投書した(せざるを得なかった)理由を、冒頭で次のように述べている。

「貴社新聞第431号を閲するに投書 皇城炎上献金名簿の部に、金5圓三潴県権大属平田泰訓と記載あり。泰は義の字の誤りならん」

平田の名は「義訓」であるため、紙面に掲載された自らの名前に誤りがあることを指摘したのである。

だが、そもそもなぜ新聞に個人の氏名が載ったのか。手掛かりは「投書 皇城炎上献金名簿」である。これはそれほど難しい話ではないが、簡単に説明をしておこう(なお上の引用文中の「投書」と「皇城」の間にあるスペースは原文のまま。この時期の新聞は、天皇関連の単語の直前にはこのように1文字分のスペースを設けるか、あるいは改行をしている)。

まず「皇城炎上」とは、同年5月5日未明に発生した皇居の火災を指す。『東京日日新聞』は同日の紙面で次のように報じている。

「本日午前1時頃皇城内炎上し、宮内を始め正院左院其外の寮司とも峻殿傑閣一時の灰燼となれり」

さらにこの日は「終日烈風」で「駒込」から「本郷」まで延焼し、「下谷」の「医学校」でも火事があった、とも述べている。江戸時代の家屋は「焼屋」と呼ばれるほど頻繁に火災に見舞われたが、江戸から明治になってまだ6年。「焼屋」は多数残っていた。

さて、つぎの「献金名簿」。「献金」は、「皇城炎上」後に全国各地から皇居再建のための献金があったことを指す。「名簿」とは、この場合は同年7月23日の『東京日日新聞』投書欄に掲載された献金者の一覧を指している。その一覧に、次のように平田の名もあったのだ。

  皇城炎焼に付献金名簿
一 金5圓
    三潴県権大属平田泰訓
一 金15圓
    東京府貫属士族・・・
   :

誰がどのような経緯で投書したかは不明だが、投書欄にはこのように献金者が掲載された。この投書では十数件の献金が一覧で示されている。

平田が投書した理由は、この一覧に載った自らの名前が間違っていたためだったのである。見方にもよるが、明治の新聞は読者のクレームを掲載するだけの余裕があったともいえるだろう。

それはさておき、平田は投書の末尾で、

「乞う貴社の労を得て投書の者の謝罪あらんことを」

と記しているが、はたして投書者からの謝罪はあったのだろうか。

参考資料

『掌中官員録 全』(1874年10月)

「官員録」とは、中央省庁や府県の官僚の名簿である。省庁や府県ごとに官等(官員の等級)と氏名、出身県を記載して1冊となっているものが多い。小規模な県の場合は1冊10ページに満たないこともある。しかしなかには全国の官員を網羅する大部のものもある。この『掌中官員録』もそのひとつで、300ページを超える。

平田の名が記載されているのは、166丁裏(332ページ目)。昔の「丁」と今の「ページ」の関係は少しややこしいが、「丁」はページの表裏2ページ分を指す。出身地(本籍)も記載されていて、「ヲカヤマ」とある。

三潴県の官等は、上から「権令」「参事」「権参事」「大属」「権大属」「中属」…とつづいている(他の府県もほぼ同様)。投書によれば、1873(明治6)年は権大属だったが、この1874(明治7)年の官員録では、理由は不明だが「中属」と官等が1つ下がっている。

この年以降の官員録もいくつか確認したが、平田の名を見つけることはできなかった。官を離れたとは推測できるが、その理由やその後の足跡はまったくわからない。

※所蔵:国会図書館(デジタルコレクションでは2019年3月現在未公開)

投書一覧

  1. 『東京日日新聞』1873(明治6)年9月16日
    無題(皇城炎上の献金者氏名について)
東京

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